
トヨタ自動車では、電算部門(技術官管理部)に所属していました。米人の同僚は本社の窓ガラスがビー玉色だったのを見て、ピンク・フロイドのエコーズの歌詞に出てくる海底に沈んだ遺物の一部みたいと馬鹿にしていましたが、私はその渋い色合いや粗い表面がお気に入りでした。
中村健也顧問

就職して2年ほどしてから、初代クラウンの主査であった中村健也顧問に旧MacOS での Pascal プログラミングを指導するよう電算部門に依頼がありました。
初めてお逢いしたのは東富士からの出張を経て本社ビルの来賓室でした。初回の面談の時は事前にそこの管理者の方から、(本社からセンチュリーを配車される来賓の方への対応なので当然なのですが)まるで新人の様にビジネスマナーを色々指南され少々参りました。
その後豊田市に転勤になってからは岡崎の顧問宅にお邪魔し、マックでグラフを表示・印刷するプログラミング方法を指導しました。退社後、4年ほどして知人から顧問の訃報を受けました。日本の存亡を懸けるほど大きな労でしたので、大いにその労を労いました。
プロジェクト X によると晩年の顧問は CO2 削減に鑑みハイブリッドなど環境問題について頑張られたそうですが、1994年頃は専ら車体デザインに注力なさっておられました。80歳を過ぎても自宅の書庫で様々な演算を試行錯誤し、より良い曲線近似方式を編み出そうと奮闘されておられました。
上司が顧問にマックの使用を勧めたのは、顧問が豊田英二さんから自伝執筆を促されていた関係でした。専用ワープロも HP9000 もお持ちの顧問が低性能で直ぐ落ちる玩具に興味がある訳がありません。煩悩が無さそうな方(※)でしたから、自伝は後回しにして技術者としての興味からマックでのプログラミングを単に試行されただけだと思います。
※)幼少時に虚弱で結核により臨死されていることやお母様が早く亡くなられていることが大きく影響していると思います。

これは…

GNU

1990年頃から GNU を活用し始めましたが、当時は “configure && make && make install” でインストールする仕組みも確立していませんでしたし、UNIX の基本コマンドですら不備がかなりありました。
GL(OpenGL の起源)の開発元として有名な Silicon Graphics の Irix が SVR3 に BSD拡張をした変則的な環境だったので、ソースコードを改造して動作するようにするのに苦労しました。その際、後述の CVS を大いに活用しました。
まだ pbmplus さえ完成していなかった昔なので Sun Microsystems や Silicon Graphics のグラフィックデータとマックのグラフィックデータを相互に変換するマックのアプリや UNIX の フィルター(Shell Script/C)を作っていました。
今のネット社会の礎は GNU MINIX Linux だと思いますので、リチャード・ストールマン(RS)、アンドリュー・タネンバウム、リーナス・トーバルズらに感謝していますし、RSを尊敬しています。
ECU
当時の ECU は用途毎にエンジン用・パワートレイン用・ABS用に計3つありました。プログラムは全てアセンブリ言語で書かれリアルタイムOSも使用していませんでした。エンジン用 CPU・パワートレイン用 CPUは 16bit で、ABS用 CPUは 8bit でした。
以下が喫緊の課題でした。主に 4.を担当し、コーディングする環境をメインフレーム→UNIX ワークステーションに移行させ、GNU に含まれたばかりの バージョン管理システム CVS(Concurrent Vesion System)の導入、X11 Motif での CVS のフロントエンド開発などを行なっていました。
- CPUのアップグレード
- リアルタイムOSの活用
- デバッグ環境のアップグレード
- ソースコードのバージョン管理
